59年間に渡る安東金氏による勢道政治は、王権の弱体化と王朝の混乱を生じさせた。王族は直接政治へ関与できなくなっていたために、手をこまねいているしかなかったが、その中から安東金氏より権力を取り戻そうという動きが出てくる。1863年に第26代王高宗が即位するまで、依然、朝廷の権力は安東金氏が掌握していた。憲宗の母である神貞王后(趙氏)と李昰応(昰は日の下に正。興宣君)は、この権力構造を打ち破り、王権を取り戻そうと策を巡らせていた。李昰応は、安東金氏の目をそらすために安東金氏一門を渡り歩いて物乞いをするなどし、安東金氏を油断させる事で護身を図った。やがて哲宗が重病に陥ると、自らの次男の聡明さを喧伝し、哲宗が亡くなると神貞王后と謀り、自分の次男を孝明世子(翼宗)の養子とし、そのまま高宗として即位させた。神貞王后が高宗の後見人となり、李昰応は大院君に封ぜられ(興宣大院君)、摂政の地位についた。このとき高宗は11歳であった。
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興宣大院君が摂政になるとまず行ったのは、安東金氏の勢道政治の打破であった。安東金氏の要人を追放し、党派門閥を問わず人材を登用し、汚職官僚を厳しく処罰するなどして、朝廷の風紀の乱れをただす事に力を入れた。また税制を改革し、両班にも税を課す事とし、平民の税負担を軽くした。
一方で、迫り来る西洋列強に対しては強硬な鎖国・攘夷策を取った。この極端な攘夷策が、後の朝鮮朝廷の混乱の遠因となってしまう。まずカトリックへの弾圧を強化し、1866年から1872年までの間に8千人あまりの信徒を殺害した(丙寅教獄)。この折のフランス人神父殺害の報復としてフランス政府は、1866年、フランス軍極東艦隊司令官のローズ提督は戦力のほぼ全てを投入して(軍艦7隻、兵約1300名)して江華島の一部を占領し、再度の侵攻で江華城を占領する。しかし首都漢城へ進軍中に発生した2つの戦闘で(文珠山城戦闘、鼎足山城戦闘)で立て続けに敗北したフランス軍は漢城への到達を諦め1ヶ月ほどで江華島からの撤退を余儀なくされる(丙寅洋擾。擾は手偏に憂)。
一方、この事件の2ヶ月前にはアメリカ商船ジェネラル・シャーマン号が通商を求めてきたが、地元の軍と衝突し、商船は沈没させられてしまう(ジェネラル・シャーマン号事件)。アメリカは同事件を機に朝鮮へ通商と損害賠償を求め、1871年には軍船5隻を率いて交渉に赴いた(辛未洋擾)。この交渉が朝鮮側の奇襲攻撃によって拒絶されるとアメリカ軍は江華島を占領し、通商を迫った。しかし大院君の強硬な開国拒絶により、アメリカ軍は1ヶ月で交渉を諦め撤退する。
大院君はこれらの成功を以って、さらに攘夷政策を強化するが、1866年になると王宮に入った閔妃の一族や大臣達が、大院君の下野運動を始める。1873年、閔妃一派による宮中クーデターが成功、高宗の親政が宣言され、大院君は追放される。一方で政治体制は閔妃の一族である閔氏が政治の要職を占める勢道政治へと逆戻りしていった。これ以後大院君は、政治復帰のためにあらゆる運動を行う事になり、朝廷の混乱の原因の一つとなった。
閔氏一族は、大院君の攘夷政策から一転し開国政策に切り替える。1875年には日本軍が開国を求めて江華島に侵入してきた。開国派が主流をなした閔氏政権は、1876年に日朝修好条規(江華島条約)を締結する。それに引き続いて、アメリカ(朝米修好通商条約)、フランス、ロシアなどとも通商条約を結ぶ事になる。
一方で、開国・近代化を推し進める開化派と鎖国・攘夷を訴える斥邪派の対立は深刻になっていた。
また、日本から顧問を呼び近代式の新式軍隊の編成を試みていたが、従来の旧式軍隊の扱いがなおざりになり、給与不払いや差別待遇などが行われていた。これらに不満を持った旧式軍隊は、大院君・斥邪派の煽動も有って、1882年閔妃暗殺を狙い、クーデターに動いた(壬午軍乱)。この軍乱で一時的に大院君が政権を掌握するが、閔妃は清の袁世凱に頼みこれらの軍を排除、大院君は清に連行された。壬午軍乱により閔氏政権は、親日政策から親清政策へ大きく転換する事になる。この政策は親日開化派の不満を招き、また朝鮮の軍隊は清と日本の干渉により有名無実化していく。また混乱から国内では反乱が生じる。
1884年12月、金玉均、朴泳孝ら開化派(独立党)がクーデターを起こし、閔氏を排した新政府を樹立するものの、袁世凱率いる清軍の介入により3日間で頓挫、金玉均らは日本に亡命した(甲申政変)。また1894年には東学党の乱(甲午農民戦争)が勃発する。東学党の乱が勃発すると、親清派の閔氏勢力は清に援軍を求め、一方日本も条約と居留民保護、列強の支持を盾にこの戦争に介入した。東学党の乱は2国の介入により、官軍と農民軍の和議という形で終結するが、清軍と日本軍は朝鮮に駐屯し続けた。日本は閔氏勢力を追放し、大院君に政権を担当させて日本の意に沿った内政改革を進めさせた。しかし、攘夷派であった大院君はもはや傀儡に過ぎず、実際の政治は金弘集が執り行っていた。なお東学党の乱に先立つ1894年3月28日、金玉均が上海で閔氏勢力の差し向けた刺客により暗殺されている。
その後東学党の乱の鎮圧に朝鮮政府が清に援軍を要請し、それに対抗して日本が朝鮮に出兵を行ったことから日清戦争が勃発し(1894年-1895年)日本軍の勝利に終わると、下関条約により、朝鮮と清の冊封関係は終り、日本の影響下におかれる。一方、朝鮮での立場が弱くなった閔妃はロシアに近づき、親露政策を取る事になる。これにより朝鮮人と日本人の手で1895年10月に閔妃が惨殺される(乙未事変)。
自分の后が暗殺されるという事態に直面した高宗は恐怖を感じ、1896年、ロシア領事館に退避する(露館播遷)。1年後高宗は王宮に戻るが、これにより王権は失墜し、日本とロシアとの勢力争いを朝鮮に持ち込む結果となった。1897年、朝鮮は大韓帝国と国号を改称し、元号を光武とした。日本は朝鮮の保護国化と主権剥奪の路線を進めていく。
日本による保護国化から併合-高宗後期?純宗時代
1904年になると、日露戦争が勃発し、日本側の勝利に終わる。1905年には軍事力を背景とした日本側の威圧のもとで第二次日韓協約が締結された。日本は朝鮮の外交権を接収し、内政・財政に関しても強い影響力を得て朝鮮の保護国化を推し進めていく。これら一連の主権接収の責任者となったのは伊藤博文であった。一方、高宗も1907年オランダのハーグに密使を送り、列強に保護国化政策の無効化を訴え出るが(ハーグ密使事件)、アメリカ、イギリスともに日本の保護国化政策を認めていたため、この主張は認められなかった。これらの動きに対し李完用などの親日派勢力、及びその後ろ盾である韓国統監伊藤博文は日本の軍事力を背景に高宗に譲位するよう迫り、同年退位することとなった。代わりに最後の朝鮮王、大韓帝国皇帝である純宗が即位した。
1906年、日本は韓国統監府を置き、伊藤博文を初代統監とした。これに続き日本政府内では最終的な併合の時期をめぐって話し合いがもたれた。元老でもあり日本政界に発言力を持っていた伊藤博文は早期併合派に対して異論を唱え、当初は早期併合には反対の姿勢をとった。彼が早期併合に反対する理由として述べたのは、
現在の保護国化状態でも実質的には併合した場合と同じく朝鮮を支配でき、又韓国侵出の口実として用いてきた『韓国の独立富強』という建前を捨てることは却って益なしである。
上記の理由に加え、財政支出の増大を招くことからも早期併合は勧められず、今は国内の産業育成に力を注ぐべきである。
ということであった。
しかしその後、韓国国内での義兵闘争はますます苛烈となり、また朝鮮宮廷の懐柔も伊藤が想定したほどの効果は上がらなかった。業を煮やした伊藤は自分の取った方針が不適切だったと感じ、遂に1909年7月6日の閣議で他の閣僚の進言を受け入れ積極的併合策への転向を明言した[要出典]。韓国侵出の実質的な総責任者であった伊藤の方針転換により韓国併合への障害は無くなり、同会議で日韓併合が正式決定された。1909年10月26日に伊藤博文は安重根によって暗殺されたが、既に韓国併合の流れは決定的なものとなっていた。日本政府は韓日合邦を掲げる韓国一進会や日韓併合派の李完用とともに交渉をすすめ、1910年8月22日、日本の軍隊が王宮を取り囲み、反対派を威圧するという厳戒状態の中日韓併合条約は締結された。ここに韓国は朝鮮と改称され、日本の植民地となった。(したがって、植民地に適用されないと条文で明記されている条約等は、当時の日本政府の解釈により、朝鮮には適用されていない)。これにより、518年に及ぶ朝鮮王朝は滅亡した。
政治
国王
朝鮮の国王は、全州李氏の出自である初代国王李成桂の子孫(李王家)によって世襲され、国号を大韓帝国と改めた高宗までの間に26代を数えた。中国に倣った朝鮮の国制によれば国王は国家の最高権力者であるが、明では廃止された合議制による宰相の制度があり、中国ほど徹底した専制制度ではない。
官制
官の上下関係は、中国に倣った官品制をとる。それぞれの官には対応する品が定められ、品は一品を最上位とし、以下、二品、三品、と一品から九品までの九階に分かれていた。各品には正と従の区別があり、正一品の官が最上位、従九品の官が最下位となる。その中で正三品は堂上と堂下に別れ堂上官は王宮に上がり王と対面する事が可能だった。一般的に高官と呼べるのは従二品以上であり、品階により、住居・衣服・乗り物などに差が付けられていた。これらの官職は常時改変が為されていたが正式にまとめられた形で出てくるのは世祖時代の『経国大典』による。
官は、大きく内府である女官の内命婦、外府である京官職および外官職に分かれる。また、王族女子・功臣・文武官の妻に対する官位(外命婦に属す)もあるが、名目上のものであった。それ以外では、中国からの使節の応対を行う非常勤職の名誉職奉朝賀、宮殿の内侍を行う内侍府(大抵、宦官が職務に付き王の身の回りの雑務を行う)、雑役に従事する雑職などがあった。
王朝に使える諸官は科挙を通じて、文官は文科、武官は武科によって選抜され、武官は文官に比べて常に低くおかれていた。また中人階級が付ける技術職は更に下に位置し、雑科によって選抜された。特に李氏朝鮮初期の王子達の私兵による争いの後は、武官・軍事に関しては厳しく管理されていた。また、各官府には官職・官位の上限があり、決められた品以上に就くことは出来なかった。
王族は宗室と呼ばれ、自動的に京官職の宗親府に属する。宗室も一般の官と同様に正一品が最上位になるが、王の子(大君・王子君・公主・翁主)は位階制度の上にあって品を持たない。宗室において最も上の官職は君と呼ばれ、正一品から従二品が与えられる。外戚や功臣なども忠勲府に属し、最高位を正一品とした官職が自動的に与えられた。忠勲府の最高位は府院君であり、次が君である。従って君と言う称号は王子・王族の事を差す訳ではない。
行政の最高機関は議政府であり、基本的に文官のみが付くことが出来た。議政府の最高位は正一品の領議政であり、その下に同じく正一品の左議政と右議政が居た。他の正一品の官職には各院・各府の都提調・領事などがある。
議政府の次に位置するのが正二品の判書であり六曹の大臣やその他の官衙長官の職務を担当し、判書を補佐するのが従二品の参判や、正三品堂上の参議であった。
また、功臣の子弟や外戚は成年すると自動的に忠勲府や宗親府に配された為に科挙を受けずとも官品を受けることが可能であり、まず役職を授かってから科挙を受け、官僚になることが多かった。
首都
当初は高麗を踏襲して開城を首都と定めていたが、間もなく漢陽(漢城、現在のソウル)へと遷都が行われた。その後、王子の乱等によって生じた混乱から、開城と漢陽を行き来していたが、第3代太宗以降は漢陽に落ち着く。
李氏朝鮮末の漢陽の人口は約25万と推定されている。儒教思想により、王宮より高い建物を建てることはできず、街には2階建ての建物は存在していなかった。風水思想とオンドルの効果を高める為に半階建てとも言える低い家が建てられていた。漢陽内の土地は全て国の所有物であり許可無く建物を建てることができず、階級・派閥によって居住区が指定されていた。
首都内に土地を借り、建物を建てる許可を得るには年月がかかるため、民間人による街路の占拠が盛んに行われ、仮屋と呼ばれる建物により道幅は非常に狭くなっており、商店の建ち並ぶ通りは雑然とした雰囲気に充ちていた。
また汚水処理の施設や対策は1905年の第二次日韓協約の直前の10月までに行われず、韓国政府と皇太子(後の大正天皇)の寄付をもってようやく本格的に公衆トイレの設置と道路の清掃作業が行われるようになった。それ以前の漢陽は道路も河川も汚物に汚れるに任せていた。19世紀初めのロンドンの下町では、アパートの上層の住民が排泄物をおまるで路上にぶちまけるので、常に頭上を注意しなければならなかったという逸話があるが、そのイギリス人で開国後の李氏朝鮮を旅行したイザベラ・バードや、李氏朝鮮末期の開国前にキリスト教布教に携わった宣教師などの西洋人ですら、漢陽(現在のソウル)を世界でも指折りの不衛生な都市と指摘している。
地方行政
朝鮮八道という、大きく八つの道に分けて行政を行った。なお、現代の北朝鮮・韓国の行政区分もこの朝鮮八道を元にしている。また、首都ソウルと開城・江華・水原・広州の4都は直轄地とされ京官府に属し、ソウルは漢城府が、四都は各府の留守職がこれを治めた。
朝鮮八道
咸鏡道 (咸鏡北道・咸鏡南道・両江道の一部・羅先直轄市 北朝鮮)
平安道 (慈江道・平安北道・平安南道・両江道の一部・平壌直轄市・新義州特別行政区 北朝鮮)
黄海道 (黄海南道・黄海北道 北朝鮮)
江原道 (江原道 韓国 / 江原道・金剛山観光地区 北朝鮮)
京畿道 (京畿道・ソウル特別市・仁川広域市 韓国 / 開城直轄市・開城工業地区 北朝鮮)
忠清道 (忠清北道・忠清南道・大田広域市 韓国)
慶尚道 (慶尚北道・慶尚南道・釜山広域市・大邱広域市・蔚山広域市 韓国)
全羅道 (全羅北道・全羅南道・光州広域市・済州特別自治道 韓国)